郵便番号・住所 | 529-1152 滋賀県彦根市安食中町98 | |
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寺院名 | 智教寺 | チキョウジ |
山号 | 安食山 | アンジキザン |
交通 | JR琵琶湖線川瀬駅より稲枝行バス安食中バス停下車 | |
電話番号・FAX番号 | 0749-25-1937 | |
Eメール | ||
開創 | 開基は木俣清左衛門、開山は慈門法師 | |
由来 | 百済寺に亮算法院(天海大僧正の弟子)が住していた頃(寛永末年<1644>から寛文5年まで<1665>)、現在の智教寺が所在する周辺の村落に、比叡山下坂本より三明院と名乗る僧が来て、涅槃宗の教えを広めた。およそ80人に及ぶ人々が帰依して、各家を会場とする宗教活動が続けられていたが、間もなく涅槃宗は幕府禁制の宗門とされてしまった。宗徒はひそかに活動を続けていたものの、ある日これが彦根藩の役人によって発覚され、宗徒は捕えられ刑罰をうけることになった。その時、たまたま刑場を通りかかった彦根藩家老木俣清左衛門が、事の次第を得心し、木俣公の計らいで80人に及ぶ宗徒は、その身分を百済寺亮算法印にあずけられたのである。 その後寛文2年(1662)、幕府は宗徒が正しく檀那寺に組しているかをきつく取り締まったため、亮算法。院は、百済寺の葬儀回向等の無常仏事を扱わないとの理由で、幕府が制定した寺請制度の法にならい、現在の引接寺の檀家として組み入れられた。 以後仏事は引接寺が執り行っていたが、明治3年、金剛輪寺羅溪慈本和尚の弟子、慈門和尚が安食中町に道場を開き、金剛輪寺山内の智教院の名簿を買い受け、智教坊の寺名を掲げた。故に智教寺の開基は木俣清左衛門、開山は慈門法師と仰いでいる。 慈門法師滅後はしばらく無住となっていたが、明治18年、引接寺を引退した百山智泉和尚が入寺し、ただちに新寺公認の願上書を提出して、明治20年に天台宗の公認を得て、引接寺との関係が再び強化したわけである。 |
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現在の本堂竣工年 | ||
本尊 | 阿弥陀如来 | |
寺宝 | ||
住職 | 佐々木 陵西 | ササキ リヨウサイ |
主な年中行事 | ||
専用墓地 | ||
駐車場 | ||
その他 |