由来 |
和銅元年(708)都が奈良に移される時、都の鬼門除けとして元明天皇の勅命により良辯僧正が開基した。平安時代(1151)行胤(ぎょういん)が堂宇を再興し、鎌倉時代は亀山天皇の加護をうける。その後、火災にあい焼失。延文5年(1360)に僧侶観慶によって再建された。本堂(国宝)は正面七間、側面六間、入母屋造り、檜皮葺、三間の向拝が正面についている。
ご本尊は千手観世音菩薩で春日の作で重文。脇立は不動明王と毘沙門天、共に秘仏です。また、親属の風神・雷神(重文)。眷族の二十八部衆(重文)が奉られている。この二十八部衆は仏師永賢の作(1308)、本堂焼失の時全て持ち出されている。昭和56年風神、阿修羅、摩喉羅迦の3体が盗難に遭い、阿修羅像のみ5年後に戻る。
三重塔(国宝)は、応永7年(1401)5月に再建された。また、塔の内部には、四方の板壁に真言八祖像、十王断罪の図、地獄図、釈迦説法の群像が描かれている。現在は損傷が激しく肉眼で見られない状態である。
現在の山門は観音寺(栗東市)の山門を移築したもの、本来の山門は豊臣秀吉が伏見城築城に移し、毛利輝元が慶長6年(1601)伏見城より園城寺(大津市)の大門(国宝)として移築した。 |